2008年の半ばに
                                                   08.06.17 守山裕次郎
 今年も、あっという間に半年が過ぎてしまった感が強い。年々益々、加速度的に時間が経過するように感じられるのは、それだけ年をとったという証しなのであろう。
 近頃は世の中の変化も急激で、それに付いていくだけで、ちょっと疲れてしまうことが多い。科学技術の世界だけは、急速に進歩しているのが判るが、一方で「人間性」という観点において、昔に比べてどれだけ現代人が進歩しているかと考えてみるに、逆に、退歩さえしているのではないかと思うことが多過ぎる。
 その典型的な例が、先の東京・秋葉原での無差別殺傷事件であり、25歳の犯人の幼稚で自己中心的な動機が判るにつけ、その思いを強くするとともに、このような人物が今日の日本では「氷山の一角」なのであろうかと考えると、暗澹たる思いがしてならない。特に最近話題の、子供の給食費も払わないという「モンスターペアレント」や、病院で医師や看護師に無理難題を押し付けるという「モンスターペイシェント」の例などを聞くにつけ、この国の「人間教育システム」の抜本的改革が、何をおいても急務である。
 先日、今年は「源氏物語千年紀」ということで、久々に大津の石山寺を訪ねた。千年もの昔に一人の女性がこの場所から、瀬田川の彼方にある金勝山の空に上った月を眺めつつ、静かに物語の構想を練ったそうであるが、「感性の豊かさ」という視点で、遠い昔の女性と現代女性との比較を、ついしてみたくなってしまった次第である。
 ところで、現実の政治の世界に目を向けてみると、与野党含めて相変わらず「三流政治」の茶番劇といった感じである。福田総理の指導力のなさは、「これが本当に一国の総理大臣なのか?」と驚かされる事例に事欠くことはなく、一方で民主党の小沢代表も、政局のみに目線があり、国民不在であることは全く同様である。ここに、この国の根本的病理があるのだが、彼らを選んだのは我々国民であることを真剣に反省し、今こそ他人事でなく、自分達のこととして、政治への関心を一層深めるべきである。
 それにしても、官僚や役人の退廃ぶりには想像を絶するものがあり、渡辺大臣だけが孤軍奮闘して頑張った公務員制度改革の第一歩の法案が、先般ようやく衆参両院を通過したのは、ねじれ国会における数少ない成果であった。昨今話題の「居酒屋タクシー」に象徴される官僚達の無駄使いは留まるところを知らず、今日、国家の財政が破綻に瀕しているにもかかわらず、目の届かない特別会計を例えた、かつて財務大臣だった「塩ジイ」の名言:「母屋でオカユをすすって、離れで豪華なすき焼きを食べている」:の通りである。我々はもっと怒りを爆発させねばならないと考えるのだが、なぜ日本の国民はかくも大人しいのか、諸外国からみて、全く理解ができないのではなかろうか。
 その中で、大阪府の橋下知事などは就任以来、頑強な抵抗勢力を相手に、孤軍奮闘している様子が連日報道されているが、他県民ながら大いにエールを送りたいものである。歴代知事の放漫財政のツケを一手に引き受け、正に「聖域なき構造改革」にチャレンジし、その結果支持率は80%以上という驚異的な数字だそうである。彼には、この勢いをもって更なる改革に切り込んでもらい、ちょっと大げさに言えば「平成の坂本竜馬」となり、大阪府政の大改革を成し遂げてもらい、それを刺激に、惰眠をむさぼる国会議員や官僚どもの大改革に繋がるような「起爆役」になってほしいと願うばかりである。

 福田総理の指導力のなさは、その支持率の低下を見ても明らかだが、ごく最近の判断で看過できないことは、北朝鮮に対する圧力政策から、融和政策への転換である。北朝鮮による拉致問題への再調査など、子供だましの口実で過去に何回騙されたのであろうか?この期に及んで、更にまだ騙され続けようというという連中は、本当に日本の国民なのであろうか?彼らには一度是非聞いてみたい。「横田めぐみさんのご両親の気持が、あなた達には判らないのか?自分の子供や兄弟姉妹が、北朝鮮に拉致されたのが事実であると判って、こんな軟弱な政府の対応で、仕方ないと諦められるのか?」と・・・
 遅まきながら、橋下知事という近年まれに見る「やる気あるトップ」を選んだ大阪府に比べて、こんな無能で投げやりな、すべて他人任せの総理大臣を持つ国民は、甚だ不幸である。このような人物を圧倒的多数で総理に選んだ自民党議員は、次期選挙で彼を先頭にして戦って、勝てるとでも思っているのであろうか?我々庶民の感覚では、全く理解できない連中の集まりが、政界という「摩訶不思議な世界」なのであろう。
 
閑話休題。
 中国四川省地震の被害の大きさに驚かされたのも束の間、今度は東北地方の内陸部で、同じような直下型の地震が発生し、その大規模な地滑りの様子には我が目を疑った。最近の国内の地震は、阪神淡路大震災や中越地震なども含めて、予想外の場所ばかりで発生している印象があるが、それは即ち、「日本列島で安全な場所はない」ことの証左であろう。大自然のエネルギーの前における、人間の力の限界を改めて痛感させられた。
 中国四川省ということで思い出したのは、この二月、彦根での「小椋佳コンサート」のアンコールで彼自身が歌った「山河」という曲で、その詞には大変感動させられた。

「山河」(作詞:小椋佳 作曲:堀内孝雄 唄:五木ひろし)

 人は皆 山河に生まれ 抱かれ 挑み   人は皆 山河を信じ 和(なご)み 愛す
 そこに 生命(いのち)をつなぎ 生命を刻む  そして 終いには 山河に還(かえ)る
     顧みて 恥じることない 足跡を山に 残したろうか
     永遠の 水面(みなも)の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
     愛する人の瞳(め)に  愛する人の瞳(め)に
     俺の山河は 美しいかと 美しいかと
 歳月(としつき)は 心に積まれ 山と映り  歳月(としつき)は 心に流れ 河を描く
 そこに  積まれる時と  流れる時と   人は  誰もが  山河を宿す
     ふと想う 悔いひとつなく 悦(よろこ)びの山を 築けたろうか
     くしゃくしゃに 嬉し泣きする かげりない 河を抱(いだ)けたろうか
     愛する人の瞳(め)に  愛する人の瞳(め)に
     俺の山河は 美しいかと 
     顧みて 恥じることない 足跡を山に 残したろうか
     永遠の 水面(みなも)の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
     愛する人の瞳(め)に  愛する人の瞳(め)に
     俺の山河は 美しいかと 美しいかと

     
残りの人生、どこまで生きられるかは判らないが、人生を終える間際に振り返ってみて、この詞にあるような生き方が、少しはできたと思えるよう、これからも努力していきたい。                                  以上