生命(いのち)の尊さに目覚める(※青山俊薫氏の講話集−1)
※青山俊薫(しゅんどう)氏:昭和8年愛知県生まれ、駒澤大学大学院修士課程修了
現在愛知専門尼僧堂堂長、無量寺東堂、正法寺住職(尼僧)
○生命(いのち)のエネルギーは一つ
以前、講演で青少年健全育成市民大会にまいりましたときのことです。壇上の垂れ幕には「愛の手で非行の芽を摘もう」と書かれていました。それを見て、私はこのスローガンでは気に入らないと文句を言いました。「愛の手でよい芽を伸ばそう」という視点でなければいけないと思ったのです。「摘もう」と「伸ばそう」では、姿勢がまるで違います。そもそも、よい方へ伸びるものも、悪い方へ走るものも、いのちのエネルギーとしては一つなのです。誰もがよいところをもっているのですから、それを伸ばすことさえ考えたなら、悪い芽は出なくなるはずです。それなのに、悪い芽を摘むことしか考えないのであれば、エネルギーの出場所はなくなってしまいます。
「次郎物語」を書いた下村湖人(しもむらこじん)に、こういう詩があります。
あなたと私とはいま、バラの花園を歩いている。あなたは云う「バラの花は美しい、だが、そのかげにはトゲがある」と。けれども、私は云いたい、「なるほど、バラにはトゲがある、それでも、こんなに美しい花を咲かせる」と。
同じバラを見る場合でも、どこに目が注がれているかによって、広がる世界が違ってきます。「美しいけれどもトゲがある」と見れば、欠点ばかりに注目した冷たい見方になるでしょう。しかし、「トゲがあるけれど美しい」と美しさに目を注げば、トゲは許されるべきものとして、あたたかい世界が広がるのです。
さらに、いのちのエネルギーという視点から見れば、トゲを育てるエネルギーも、美しい花を育てるエネルギーも一つです。一つのエネルギーの出場所が違っただけなのだ、ということを心に留めておかねばなりません。
○生命(いのち)の尊さを自覚する
では、その一つのエネルギーはどこからいただいたものなのでしょうか。
まず、時間的に考えてみます。京都大学の元総長・平澤興先生は、地球上のすべての生き物は、30数億年の「いのちの歴史」をもっているとおっしゃっています。46億年といわれる地球の歴史を1年に換算すると、最初のいのちである微生物が誕生したのは4〜5月に当たるそうです。その微生物が進化を続け、やがて地球で最も新参者の人類が登場するのは、12月31日の午後10時過ぎに換算されるそうです。いのちとしては人類よりも、植物や昆虫の方が先輩に当たりますね。いずれにしても、あらゆる生き物は30数億年の
「いのちの歴史」を背負って、今の姿があるのです。
では、次にいのちを空間的に見てみましょう。地球と太陽の間の1億5千万kmという距離が、引力のバランスを保っているおかげで、私達は健やかに暮らすことができます。
この距離が近ければ暑くて暮らせませんし、離れていれば地球はマイナス数百度になって、やはりいのちは存在できないでしょう。ちょうどよい距離を保っているのは、太陽系惑星相互の引力バランスと、銀河系など宇宙全体のバランスのおかげなのです。
こうして時間的には30数億年のいのちの歩み、空間的には宇宙全体のお働きを一身にいただいて、私たちが生きている。大変な「いのち」でございます。
そして、このお働きをいただいているのは人間だけではありません。草木も動物も、この地上の一切のものが平等にお働きをいただいて、今この一瞬を生かさせてもらっています。けれども、いのちの尊さに目覚め、このお働きを自覚することができるのは人間だけなのです。
○アンテナを立てよう
とはいえ、ただ人間に生まれてきただけで、いのちの尊さを自覚できるのかといえば、そうではありません。例を挙げてお話してみましょう。
昨年の4月、ある企業から新入社員の研修を頼まれ、20人ほどの若者が私の道場へやってまいりました。座禅や食事を作法に従って体験していただき、仏法の話をわかりやすく説いたつもりです。ところが、感想を聞いてみると、20人のうち19人までもが「足が痛い」ということだけしか言ってくれず、がっかりしてしまいました。せめてもの救いは、重い病気をしたという方が一人いて、「今日のお話しは、自分の病気の苦しみに重ねて嬉しゅうございました」と言ってくれたことです。
このように、同じ話を聞いても、「アンテナが立っていなければ」教えに出会うことができません。アンテナは悲しみや苦しみのおかげで立つのです。そのアンテナのおかげで人や教えに出会い、宇宙総力のお働きを受けて、今自分が生かされていることを自覚できます。この自覚によって、自分のいのちをどう生かせばいいのかという方向付けも、自ずからできてきます。これが大事ですね。
○この生命(いのち)をどう生きるか
さて、先ほどすべてのいのちは30数億年の歴史と宇宙全体のお働きを受けて、今ここにあるというお話をいたしました。それを仏教では「一即一切(いちそくいっさい)一切即一(いっさいそくいち)」という言葉で表わします。
たとえばここに時計があったとします。時計には長短2本の針がありますが、これを押さえるピンは百分の一センチくらいの小さなものでしょう。しかし、小さいからといって、ピンが「目に見えないようなお役はつまらない」と自分の役割を放棄してしまえば、時計は止まってしまいます。百分の一センチの小さなピンが、時計全部のいのちを背負っているのです。このように、一つのことが一切を背負っていることを「一即一切」と言います。
そして、小さなピンがどんなに健やかに働ける状態であっても、時計を構成しているたくさんの部品のどれか一つが故障してしまえば、時計は動きません。つまり、全部の部品がそれぞれの持ち場を十分に務めるという形で、総力を挙げて小さなピンを働かせてくれているのですね。それを「一切即一」と言います。
これは時計だけに当てはまることではありません。私たちのいのちも、宇宙総力のお働きを一身にいただいて生かされています。体の中にある60兆もの細胞が私を生かし、宇宙の引力のおかげで、この地上に立っていることができます。気づく、気づかないに関わらず、私たちは誰でも、宇宙総力のお働きをいただいて生きているのです。これもまた「一切即一」と言い表すことができましょう。
それほどのいのちをいただいて生きていることを自覚できれば、自分の生きる姿勢に対しても「一即一切」でなければならないという答えが出てきます。つまり、小さなピンが時計全体のために働くように、私たちも人類全体という視点のもとに今ここを生きる。
そういうことがわかってまいりますね。
○修行に卒業はない
しかし現実の自分を見つめてみると、私たちは自分のことしか、かわいくないものです。
ですから、どうあるべきかはわかっていても、実際にそれを実行するのはむずかしゅうございます。
自分を超えて行くには、まず、自己中心にしか見ることができない自分に気づくことから始める。そして、小さな自分の思いを捨てて、大きな視野で物事を見据えていくことが大切です。
先日、タクシーの運転手さんからこんな話を聞きました。あるお母さんが、靴を履かせたままの子供たちを、椅子の上で遊ばせていたそうです。運転手さんが注意をすると、逆にそのお母さんから「大きなお世話だ」と言われたと憤慨していました。そこで私は運転手さんに「よくぞ叱ってくれました」と言いました。最近では、自分の子供さえ叱れない親が増えてきています。まして他人の子であれば、見て見ぬ振りをする方が多い。
しかし、自分の子、他人の子に関わらず、いけないことに対しては慈悲の心で叱ってやらねばなりません。「どの子であっても、育てるのは大人全員の責任だ」という視野で子供たちを見守っていく。そのような大きな愛が必要だと思います。
そして自分が生きていくうえでも、わがままな私の思いを満足させるのではなく、常に生活の全分を、仏さまに引っ張られていくような生き方を目指したいと思います。「修業」と「修行」はどちらも「しゅぎょう」と読みますが、同じではありません。修業には「卒業」がありますが、修行は「行い」つまり、生き様そのものです。卒業はない。生きている限り続くのが修行でございます。仏さまという光に照らされながら、我が非に気づき、それに気づかせていただくことで、無限に軌道修正をしながら、やり直しのきかないたった一度の人生を、一歩一歩、歩ませていただこうと思います。
以上
(追記)
青山俊薫氏の含蓄のあるお話にはかねてより興味があり、12巻の講話テープを2種類(全
24巻)持参しております。これを機会に、漸次その内容をご紹介していきたいと考えます。
07.08.17 守山裕次郎