石原慎太郎 教育論 のご紹介
(その2)親子関係について
ある心理学者は、日本と西欧の親子の関係をくらべて、日本は減点法であり、西欧は加点法であるといっている。つまり日本の場合には親が子に百パーセントの可能性を信じてかかり、その夢がつぎつぎに破れていくことで、親子関係が百パーセントから減点されていく。
これに対して西欧では、西欧の近代主義のつくりあげた、よい意味でのエゴイズムから、まず虚飾を捨てた一対一の親子関係、つまり0点から出発し、ことあるごとにそれにプラスを重ねていく。結果、それが五〇点に満たなくとも、それだけのプラスが親子の関係にあったということになる。
いずれにしても、西欧であろうと日本であろうと、どの親も子どもに期待をかける。しかし期待をかけられた子どもは、その親の血を半分受け継いだ人間なのであって、親の欠点もよい点も受け継いでいることで運命が決まっていくのだ。子どもにしてみれば、そんな血を自分に分かち与えた親に、可能性もない可能性を信じられ期待をされることは、はなはだ迷惑であろう。
子どもは親の分身には違いないが、しかし同時に独立した一個の人格であるということを、親は心得てかかる必要がある。昨今はやりの教育ママは、子どもの教育に熱中することで、子どもが、自分が分かち与えた血の能力を上回った成果をもたらすと盲信しているのかもしれないが、笑止のさたである。
「スパルタ教育」(光文社)
親は、子どもの生命が危険にさらされたときには、人間のワクを踏み出し、獣にかえってでも、親の本能にまかせて子どもを守らなくてはならぬ。
しかし、人間であるかぎり、ある場合には、心を押さえても子どもに酷にならなくてはなるまい。昨今の親が子どもに対して過保護といわれる実情は、まったく子どものためにはならない。
たとえば、日本の親は、自分で転んだ子どもに、すぐあわててかけ寄って手をさしのべる。大きなケガでもしたときならばともかく、一つや二つのすりむき傷のときに、親はおろおろせずに、むしろ黙って、ひとりで起きあがる子どもを見ているべきではないか。
雨の出迎えにしても、親には用事があるだろうし、多少ぬれる程度ならば、なにも後生大事にカサをかかえて迎えにいく必要などない。
転んだ子どもに手をさしのべ、雨がパラつけばカサを持ってかけつける母親が、けっきょくのところ、息子の大学の入学試験につきそっていって、大学の門の外でうろうろし、その息子がまた学園騒動でも起こせば、キャラメルを配るというバカなまねをすることにもなる。
戦国の昔の武士の親は、戦いに臨んで、よく息子や、残していく娘に、親としては酷な言葉を与えているが、それがけっきょく子どもの目から見れば、ひとりの男として、ひとりの女として、親に対する敬意を抱かせることにもなっている。
ことあるたびに、子のためを思っておろおろする親よりも、むしろ子どもをつき放し、ながめている親のほうが、子どもから見れば、最後にはたよりがいあるものに見えるはずである。
「スパルタ教育」(光文社)
たとえ親が、子どもを十分食べさせることができなくても、なおその貧乏、不自由さのなかで、親は、他人が与えることができないしつけ、教育というものができるはずである。
親がいちばん身近な人間として、自分の血を分けた相手である子どもに期待を持ち、願望を託すならば、親は、能うるかぎりのものを、子どもに与えなくてはならぬ。それはまず第一に、子どもの個性を見きわめたうえでのしつけにほかなるまい。
子どもの教育には、いろいろな方法がある。そして、その方法のなかで肉親しかできぬ方法とはなにか。それは子どもをなぐることだ。昨今では学校の先生がどんな理由があろうと、子どもをなぐると必ず物議をかもし、先生のほうが萎縮して、あえてそれを行わない。あるいはまた、子どもの食を減らす、つまり食べさせないで懲罰にするということも、親でしかできない。また、子どもを閉じ込めること、あるいは子どもをおどすことも、親でしかできない。
親はそういう意味で、子どものしつけ、教育に関しての決定的な切り札を持っているもっとも重要な教師であるのに、その切り札を放棄し、いったい、だれになにをまかそうというのか。
「スパルタ教育」(光文社)
敗戦の屈辱の回避に発した日本人の変質はいよいよ来る所まで来てしまったような気がします。家族なり企業組織なり国家なりという、不可避の連帯の中にありながらの過剰な個の主張は、戦後の悪しき所産である悪平等を生み出し、その中での努めることなしの甘えと無責任は、マゾヒスティックな他力本願をますます助長して来ました。
たとえば昨今の子どものわがままぶりにしてもそうだ。試験が嫌だから、運動会が嫌だから、それをするなら死ぬなどという駄々を、なんで、それなら死んでしまえと突き放すことが出来ないのか。それがいえない教育者は所詮保身の故にとしかいいようがない。強く叱ることが慈悲なのだと自覚できぬ者に教育者を名乗る資格もありはしまい。
「亡国の途に問う」(文藝春秋)
家庭における父性というものの意味や価値が低下し歪められてきた理由の最たるものは、家庭での母親と父親の対比が大きく変わってきたということだと思います。
あるリポートには母性の肥大化と裏腹に父性の矮小化が現実に進行しているとあったが、大きくなったらお父さんのような人と結婚したい、父のような人になりたいとかつては娘や息子たちは言ったものが、今はその逆になってきたことが統計の数字でも確認できます。
その原因が父親自身にないとは言わないが、幼い子供までが父親をないがしろにしているとしたら、やはり子供とはるかに接触の時間が長い母親の責任が過半でしょう。
「‘父’なくして 国立たず」(光文社)
以上 07.01.18 守山裕次郎