石原慎太郎 教育論 のご紹介
(その3)他人を愛することを教える
年功序列主義というのは、社会に柔軟性を欠き、社会の新しい可能性、飛躍の可能性を摘んでしまうものです。そうした反省から、民主主義社会の中では、才能、能力に対する黙約があり、能力、才能がある人間は、それに応じた処遇を与えられることになっています。つまり機会の平等主義で、決して結果の平等ではない。しかし現代では、ともすると能力主義、才能主義が過剰になって、そうした範疇以外での生活、人間関係までが殺伐としてきています。
長幼の序といっても、青年と老人ということになれば、青年のよさ悪さを老人の体験が補い、二つの世代の融合によって、さらに大きな飛躍というものが説かれ得るはずです。
私はむしろ年功主義よりも実力主義を好みますが、しかしなお、過剰に普遍化された実力主義というものの殺伐さへのブレーキをして、ある側面で長幼の序の価値がとかれるべきではないかとも思う。
「いま魂の教育」(光文社)
博愛とか献身奉仕という、人間にとって最高の美徳も、まず子供のころ自分にとっての競争者を敬い、友情を感じるという姿勢によってつちかわれるはずです。
学校での勉強にスポーツに、子供たちはそれぞれ、親には知られずとも自分の競争者、敵を持っているものですが、そうした相手に敵愾心ではなく友情を持つことによって、どれだけその競走なり戦いが楽しく幅あるものになるかということを、親はいろいろな機会に説いて教える必要があると思います。
「いま魂の教育」(光文社)
心の通う真の友人が、自分以外の自分であるとするなら、われわれはたとえその友人と2人きりでも、孤独でいる時の数百数千倍の充実を味わうことができるのです。
フランスの画家・ミレーが貧乏のどん底にあえいでいるころ、すでに新進画家だった親友のルソーは名前を偽ってミレーの絵を買ってやったそうな。
私の友人のことばではないが、人生においての難事の折に、親はすでにみまかっておらず、兄弟は離れて姿もなく、けっきょく身近にいる友人によって救われ、ささえられるということが往々にあるものです。
そうした心の友は、長じて、いくらあわてて求めても得られるものではなく、やはり子供の折から、友情の価値というものを教えることによって心の友を選び、捜し求めるという人生の姿勢を持たせていかなくてはなりません。
「いま魂の教育」(光文社)
後書
以上、石原慎太郎氏の教育論を3回にわたりご紹介しました。
今日、日本の抱える課題は様々ありますが、教育再生はこの国の最優先課題ではないかと考えます。極端な少子化の進行により、次代を担う人たちへの期待は、従来以上に大きくならざるを得ませんが、現実はその理想と大きく乖離しており、国を挙げての取り組みが急がれ、現内閣でも抜本的な見直しの議論が続けられているところです。
しかし例えどのような制度が立案されようとも、親や教師を含めた我々大人の問題意識が改善されない限り、「砂上の楼閣」でしかありえないのも事実です。
ご紹介した3回にわたる石原慎太郎氏の教育論を参考に、以下の私の意見も加えて結びとしたいと考えます。
1. 父親と母親の役割は違って当然である。父親は一家の大黒柱であり、リーダーシップを本来取らねばならないのに、戦後の日本ではその存在が大きく薄らいできたことが、家庭や社会にとっての不幸の原因でもあった。
2. 教育における父性とは、子供をしたたかな強い個を備えた人間に育てることにある。
逆に母親の役割とは、子供達には一見厳しく思える父親の方針を十分理解しつつ、抱きしめてあげながら、父親が言わんとしている意味を噛み砕いて教えることである。(父親は論理的に、母親は情緒的に)
3. 父親の方針に子供達が反発するのもよい。そこに子供達の飛躍があるのであり、最悪なのは何のポリシーもない父親である。要は父親は自分の人生哲学を持つことである。
4. 子育てにおける「おんぶに抱っこ」がダメな人間を育てる。親は子供に命の危険が生じた時には、すべてを投げうってでも、子供を守らねばならない。しかしながら少々のトラブルなどはじっと見守り、自分で解決する術を工夫させるのが真の愛情である。
5.ある場合には、子供を閉じ込めたり、おどかしたりという切り札を親は持っている。このような「愛のムチ」を放棄して、親は一体だれに彼らを任せようと思っているのか。
6. 家庭における父性の価値の低下は、母性の肥大化と裏腹な関係にある。その原因が父親にもないとは言わないが、幼い子供までが父親をないがしろにしているとしたら、やはり子供とはるかに接触時間の長い母親の責任は重大である。
7. 真の友人を持つことの大切さを、子供の頃から教えるとともに、長幼の序の重要性も併せて教え込むことである。
07.02.27 守山裕次郎