ゆったり、楽しく年をとる(※森毅氏の講演より) ※森毅氏(77才):京都大学名誉教授、数学者、評論家、エッセイスト
○あのおじさん、ええな
ぼくが大学に勤めていた頃、先輩を見ていて気がついたことがあります。それは定年になって気持ちよさそうに暮らしている人と、何となく暗く過ごしている人の二通りがあるということ。ぼくは、内面はともかく、せめて格好だけでも、気持ちよく過ごしているように見せた方がええと思います。
何でかと言ったら、よく、「年をとったら気の毒やな」と言う人がいるから。あれ、かなわんね。それから、「あの人は、昔はこういうことをした偉い人で」というのも、言外に
「今は化石やけど」という言葉が隠れているようで好きじゃない。現在のあり方で見てほしいわな。だからこっちも、少し見栄を張ってでも、「年をとるのはええで」と若者に宣言できるような生き方をするほうがいい。そんな老人を見れば、若者も「あのおじいさん、ええな。あのおばあさん、ええな」と、年をとることに希望をもつようになる。それが、老人が社会に貢献する最大のことやと思います。
○人生忠臣蔵説
さて、ぼくたちは毎年、1歳ずつ年をとるのに、感覚的には時間は等間隔に流れていない。若いときの方が時間はゆっくり流れてます。年をとると一月なんて昨日みたいなもの。
だから人生の節目を十年、二十年という区切りで考えようとすると、ちょっときつい。
それだとどんどん節目がきて、どんどん変わらないといけないでしょう。これ、どう考えたらいいかなと思ってたんです。で、ぼくが数学をやったせいか、「二乗」で考えてみるとうまくいくと思い当たった。つまり1×1=1、2×2=4、3×3=9・・・・そして、この1歳、4歳、9歳・・・というふうに人生の節目がくると考える。そうすると、年をとるごとに節目と節目の間が長くなって、自分の実感とよく合うんです。
それから、ある生物学者の話では、遺伝子学的に見ると、人間の寿命は120年くらいなんやそうです。この数字も11×11=121で、ちょうどいい。そうすると、人生には11回の節目があることになります。11回といえば、ぼくの好きな「仮名手本忠臣蔵」がちょうど11段だから、これを「人生忠臣蔵説」と名づけてみました。
この説でいくと、序段に当たるのが1歳。生まれたばかりの赤ん坊は何もできないけど、1年経つと個性も出てくるし、動くこともできるようになります。2段に当たる2歳から4歳は親の翼の下にいる雛というイメージ。3段の5歳から9歳は、幼稚園や小学校で、社会性を身につけていくころ。その次の16歳までの4段は、自分で自分が判らんくせに「親は自分を判ってくれない」なんて文句を言う、いわば魔の時代。25歳までの5段は青春です。
36歳までの6段は社会人として自分のスタイルを作っていく時期で、実際の社会を動かすのは49歳までの7段の人たち。64歳までの8段は社会的に認められるけれど、それだけに責任も重く、結構、かなわん時期。反面、定年を迎えて会社を離れ、社会的役割から開放されるときでもあります。
そして迎えるのが81歳までの9段目。
ぼくは「仮名手本忠臣蔵」でも、9段目がいちばん好きなんです。親子の切ない情愛が描かれていて、しっとりしていてね。人生もここからが本当の華になるような気がします。
これ以降は、役に立つ、役に立たないという価値観で見るのではなく、その人の存在感自体に価値が出てくる時期。いちばんおもしろい時期だと思います。
○引き算の美学
じゃあ、この存在感、つまり、その人のもつ味とは何か。まず、若い頃はいろいろな人に出会い、見聞を広めることで自分を高めようとします。これは「足し算」の考え方。
でも、「足し算」だけだと、パンパンになって破裂しかねません。たとえば、ぼくは本が好きやけど、読んだことを全部覚えているかといえばそうではない。本を読むのは新しい知識を得て、自分の見方を変えるためであって、見方が変わってしまえば知識は忘れても構わないと思います。つまり、「足し算」をしながら「引き算」もして、上手にバランスをとっているから、うまくいくんやね。
そういう意味では、過去の自分にこだわらず、昔の自分を上手に捨てていったらええと思う。「引き算」をしても、残るものは自然に残るんです。その「どうしても残っちゃうもの」が、その人の味になるんではないやろか。
ぼくは学生の頃から歌舞伎が好きで、ひいきにしていたのは、2代目の実川延若です。
延若は若い頃は器用な役者さんで、いろいろと自分流に工夫することが好きやったらしいけど、ぼくが知っている頃にはもうヨボヨボのおじいさん。でも、年をとって、計算も技巧も捨ててしまったようなところに延若の味があって、ぼくはそれが好きやった。結局、
人間として「ええなあ」という味は、いろいろ評価されたものを捨ててしまっても残るもの。
これは年寄りにしかできないんじゃないかと思う。だから、物忘れだってそんなに悪いものじゃないですよ。
○存在自体を輝かせて
それから、「元気で長生き」なんてよく言われてますけど、これもちょっと気になります。
元気がなくたって当たり前ですよ。ぼくなんかは「こんだけ長生きしてきたんだから、元気ぐらいなくても勘弁してよ」と思ってしまう。
人間は鬱(うつ)のときも躁(そう)の時もあります。それは、晴れの日もあれば、雨の日もあるようなもの。晴れでないといけないとなったら、日照り続きになっちゃうでしょう。雨の日があってこそ、バランスがとれているんです。今の世の中は「がんばれ、がんばれ」とがんばり主義になってるけれど、お日様ばっかり待ち望むより、雨の日の楽しみ方を覚えている方が楽しく生きられると思います。
ぼくは東京生まれの大阪育ちだから、両方を比較できて、おもしろいなと思うことが結構ある。昔の話をするのでも、東京と大阪では話し方が違うんです。たとえば戦争体験なら、東京の人は火を消すために一生懸命に水をかけて奮闘した話をするけど、大阪の人は煙に巻かれて逃げ回ったっていう話をしたがるの。だからといって、東京の人が最後まで水をかけていたら逃げ遅れていただろうし、大阪の人だって、はじめは水をかけて消火していたはず。どちらも同じことをしているのに、経験談として話すと違うんです。
大阪の方が吉本風というか、喜劇的でしょう。そういうのを好む傾向がある。実際に大変な経験をしているんだから、そのときは本当にかなわんと思いますよ。でも、後から考えてみると「あれ、あのときあほな事したな」なんて思えることもある。そういうことを面白がる方がいいし、それが一種の「ゆとり」になるんです。昔の苦労を話し出すと、どうしても後ろ向きになってしまうけど、せっかくなら自分の物語は面白くした方がええと思う。自分のためにもなるし、世の中も明るくなる。
年をとると、そういう「ゆとり」が生まれてくるんです。そして、その「ゆとり」を若者に見せるのが、老人の役目。老人のことを「シルバー」と言うことがあるけど、銀や金はその存在自体が輝いていて、眺めてもらうことで役に立っています。それが老人の理想だと思う。
古いお寺や老木が人を落ち着かせるように、存在するだけで世の中の重しになっている。そこにいるだけでいいという存在になること。そう考えると、年をとることはいやなことではなくなります。だからぼくは今、本心から年をとることを楽しんでるんです。
人生忠臣蔵説
序 段 1×1 1歳 人間のいちばんの成長期
二 段 2×2 2〜4歳 親の翼の下にいる雛
三 段 3×3 5〜9歳 社会を擬似体験する
四 段 4×4 10〜16歳 魔の季節
五 段 5×5 17〜25歳 青春
六 段 6×6 26〜36歳 自分のスタイルをつくる
七 段 7×7 37〜49歳 社会を支える
八 段 8×8 50〜64歳 定年前後の大変な時期
九 段 9×9 65〜81歳 存在感がその人の価値になる
十 段 10×10 82〜100歳 (まだ経験していないので、
十一段 11×11 101〜121歳 どうなるかが楽しみ)
以上